私と検察,私とマスコミ

1 ここでちょっと一服!ちょっと脱線!

自分の書いた記事をひとたび世に出せば,それは1人歩きする。自分のもののようであり,自分のものでないようでもある。
自分の書いた記事に早くも“解説”をつけるのはいささか気恥ずかしい気がするが,スサノオ通信第1号の“心”は,「想像力」ということである。そう! あのビートルズのジョン・レノンとオノ・ヨーコの“Imagine”ということである。「想像力」“Imagine”こそ,国境を越えて世界平和を実現することの出来る人民のエネルギーの源である。
スサノオ通信第2号は,菅総理や安部前総理の“政策”を批判しようとするものではない。私自身は菅総理とは個人的接点は皆無だが,安部前総理とはいくつかの個人的な接点があった。そういう意味では,少なくとも安部前総理に関しては,一般の方々と少し違う視点でモノを見ているのかもしれない。
スサノオ通信第2号で言いたかったのは,わが国がいつのまにやら「論争を避ける国家」となり,その風潮が1億余の国民全体に広く蔓延し,社会の各界,各層に根深く浸透しているのではないかという恐怖感である。1億余の国民全体が,自ら気付かぬ間に,そのような陥穽にはまってしまっているのではないかということである。
よって,スサノオ通信では,しばらくこのテーマを追求するが,その前に私自身の問題意識の発端となった私自身の個人的体験について解説しておきたい。読者の皆様のお便りを拝見してそのように感じた。

2 私と検察,検察と政治(その1)
―秦野章元法務大臣との交流とロッキード裁判―

私は,1980年代の半ば,故秦野章元法務大臣と知り合った。秦野章氏は,私大出身(日本大学卒)としては初めて警視総監となり,数々の“武勇伝”のある異色の人である。その後美濃部革新都知事との都知事選に敗れ,1974年から2期12年間参議院議員を務めた。1982年11月には第1次中曽根内閣で法務大臣となった。
私が秦野章氏と知り合ったのは,氏が法務大臣を辞めてしばらくしてのことであった。秦野章氏は,田中角栄元総理のあの「ロッキード裁判」批判,特にコーチャン,クラッターの「嘱託尋問調書問題」を鋭く批判していた。そのため,彼の“理論武装”を支える専門家を求めていた。八方手を尽くしていろいろな人を探したが,今ひとつ満足出来ないということで,ある方から“錦織さん,どうかね?”と声をかけていただいた。
秦野章氏と私は,初対面のときからたちまち意気投合した。私は,独自の「検察官論」「検察と政治論」を説き,私の刑事訴訟(法)のあらゆる知識を総動員して,「嘱託尋問調書」に対する「最高裁の不起訴宣明」がいかに酷いものかを力説した。
これに対する秦野章氏の反応は,驚くほど“学問的”なものであった。当代一流の刑事訴訟法学者,第一線の刑事弁護人さえも及ばぬかのような刑事訴訟法に対する深い知識に裏付けられた鋭い洞察力に満ち溢れていた。
私たち2人はたちまち意気投合し,時の経つのを忘れて何時間も激しく議論をたたかわせた。まるで会うべくして出会った宿命の恋人であるかのように,3日に1回どころかほとんど毎日のように“逢瀬”を重ねて,激論を闘わせた。
ちなみに,私は理科Ⅰ類時代を含め大学に6年も在籍した“親不孝もの”であったが,それは私が学生運動にのめり込んでいたからである。大学の授業にはほとんど出たことがない。“羽田デモ”のとき機動隊員の固い靴の先端で思い切り蹴り上げられ,顔面が膨れ上がったのを今でも鮮明に覚えている,秦野章氏はその警視庁機動隊トップの,そのまた頂点に立つ警視総監であった。
彼はとても気さくな人であった。あるときは,前ぶれもなく私の事務所を訪れ,「これから一緒に昼食を食べよう」という。一緒に出掛けると,私はしばらく帰ってこれなかった。何時間も激論を闘わせたからであった。当時の私は今よりずっと暇だった。
また,当時秦野章氏の「何が権力か」という著書が100万部のベストセラーとなった。そのことで氏は外国人記者クラブに呼ばれた。そのときのスピーチのさわりの部分の原稿を私が書き,かつ英訳したこともあった。そんな仲となった。
最高裁の「不起訴宣明」という“超法規的措置”により証拠として入手され,裁判所で証拠採用されたコーチャン,クラッターの嘱託尋問調書は,その後同じ最高裁によって,田中角栄氏起訴後20年もたった平成7年2月22日,その証拠能力は否定された。これはいわゆる「丸紅ルート」の判決であり,このとき田中角栄氏は既にこの世にいなかった。
ここでこの「最高裁の不起訴宣明」問題についてごくごく簡単にふれておく。当時ロッキード事件の捜査を進めていた検察は,アメリカ在住のコーチャン,クラッタ―両氏(ロッキード社の幹部など)の供述ないし証言を得ようとしたが,「自分達が訴追されないという保証」が得られなければ協力出来ないと拒否された。そこで,当時の最高検検事総長と東京地検検事正の連名で「不起訴約束」の書面を差し出したが,それではなお「不起訴保証」としては不十分ということで,当時の最高裁がこの検察の「不起訴約束に裏書保証を与える」拳に出た。それが「最高裁の不起訴宣明」である。日本の戦後刑事訴訟が創り上げた“確かな”実績・伝統として,「利益誘導による自白」まして「不起訴約束による自白」など,“任意性や信用性のない典型的な供述調書”と理解されていた。それを検察が真正面から“採用”しただけでも大問題であった。ご承知の通り近時我が国でも「司法取引」制度が導入されたが,この制度は「誤判」と「冤罪」の温床となりうる大いなる危険をはらんでいることだけは指摘しておきたい。
しかし,コーチャン,クラッターの「嘱託尋問調書問題」の最も大きくて根源的な問題は,最高裁が「不起訴宣明」書を発し,検察のこの「不起訴約束」にお墨付きを与えたということである。これは検察と裁判所との根本的関係の在り方を否定するものであり,“超法規的措置”などという美辞麗句で免責されるようなしろものではない。我が国刑事司法制度の根幹を破壊する“権力のあり得からざる暴走”だった。裁判所と検察が“グルになっている”と思われたら(“遠山の金さん”以外の場合は!),およそ近代刑事司法は成立しないのである。
しかも,これには当時の三木総理の指揮があった。その意味でこの問題は,検察と司法,検察と政治の在り方を根底から問うものであった。
前述したように,この嘱託尋問調書の証拠能力は,「不起訴宣明」を出した当の最高裁自身によって20年後にその証拠能力を否定された。そのことでおびただしい数の専門家の論稿が法律専門誌に発表された。それはそれで当然のことではあったが,その論評の多くが刑事訴訟法の極めて技術的な解釈の議論に終始したのは,誠に寂しい限りである。最高裁が「不起訴宣明」を発したのは,ときの最高裁が,その一瞬,“本来の役割”を忘れて“政治裁判所化”したからである。その後同じ最高裁がその嘱託尋問調書の証拠能力を否定したのは,20年もたってようやくほとぼりが醒め,“我にかえって”“本来の姿”に帰っただけである。それだけのことである―とも言えるし,それだから大問題だとも言えるのである。
この問題は,また別の機会に詳しく述べることとする。

なお,私が政治の世界に転進する大きなきっかけとなったのはこの秦野章氏との出会いである。私は「自民党にもこんな政治家がいるのか!?」といたく感激した。
実は,私が島根全県区(中選挙区)からいわゆる“保守系無所属”として衆議院選挙に初出馬の準備をしていた平成5年3月,出雲市での地元事務所拓きに秦野章氏を応援弁士として招いた。必死で動員したわずか300名の支援者(聴衆)を前に,秦野章氏は事務所が用意した「みかん箱」の上に立って演説してくれた。
ずっと後になって知ったことだが,“竹下王国”といわれた島根選挙区に応援弁士として出向くことは,当時の自民党政治家には“絶対に許されないタブー”だったということである。私は,その後いろいろな人からそのことを嫌という程聞かされ,また思い知らされることになったのである。現に,私はその数か月後の同年7月新たに結成された新党さきがけの公認候補として出馬することになるのだが,その選挙本番では誰ひとり現職議員は応援に来てくれなかった。後で知ったことだが,“友党”である日本新党の候補者のところにはさきがけの政治家が何度も応援に駆け付けていたとのことであった。竹下登氏の“ご威光”が効いていたのであろうか(もっとも“何も知らない”ことは幸せそのものであり,当時の私はそんなことは気にもせず,“自力で”はいあがろうとしていた。)。
その後新党さきがけの先輩たちの高い志を知った今となっては,公認候補である私のところに誰も応援に来なかったのは,島根選挙区が交通不便で,応援に行くのにはいささか“効率が悪い”ことや,また私自身が単独で竹下王国に挑むドン・キホーテとして泡沫候補とみられていたからだったのであろうかと,想像している。
そんな中,私の要請にふたつ返事で応援に駆け付けてくれた秦野章氏―どんな人であったか,多くを語るまでもなかろう。

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