2021年7月9日 第5号 私と検察,私とマスコミ(第3回)

<ここで一首>

ウィルスを
  解(と)き放(はな)ちたる
    人の世(よ)を
花咲き乱れ
  常世(とこよ)の如(ごと)く

 これは最初の緊急事態宣言が出された昨年の4月5日,ある人と花見の宴を催す約束が流れた際,閑散とした隣の公園で詠んだ歌を,その人に贈ったものです。
レヴィ=ストロース先生(フランスの文化人類学者)の“弟子”を自称(僣称)する私の想いを込めた一首です。

私と検察,私とマスコミ(第3回)

4 私と検察,検察と政治(その3)
 ――水俣病自主交渉川本裁判(続き)――

 この裁判で是非お伝えしておきたいことを3つほど追加し,次のテーマに移ります。
 ひとつは,前回お伝えした検察の“異例のスピード上告”に対し,実はその直後にチッソの島田賢一社長が最高裁に対し次のような内容の上申書を出していたということである。

「右事件は当社の水俣病補償問題から派生したものであり,当社といたしましては,‥‥(中略)・・・・,東京高等検察庁に対し,上告をお差控え下さいますようお願いするところでございましたが,異例のスピード上告により,これを果たしえませんでした。
・・・・(中略)・・・・本問題がこれ以上長期に亘ることは,現地水俣での被害者との関係上憂慮されますので,このような当社の窮状をお汲みとりいただき・・・・(以下略)・・・・。」

読者の皆様はこれを読んで,どのように思われるであろうか。「検察の正義」とはいったいどこにあったのか?
 ふたつめは,熊本検察審査会の議決のことである。実は,川本輝夫氏に対し東京地裁の一審判決が有罪を言い渡したのに対し,水俣病患者らはすぐその足で東京地検特捜部に出向き,歴代のチッソ社長らを殺人罪と傷害罪で告訴・告発していた。これに対し,その後,熊本地検は,歴代社長・工場長の内それぞれ1名を「業務上過失致死傷」罪で起訴したのである。
 これに対し,川本輝夫氏は,「なぜ殺人・傷害罪でないのか?」と熊本検察審査会に審査を申立てた。熊本検察審査会は,
これに対し,

「アセトアルデヒド排水を排出することにより水俣病患者が発生することを十分に確認していたものと認められ,その認識を有しながら敢えてなした排水行為は,故意にもとづく行為と断定すべきものであり」

と,故意犯,即ち殺人・傷害罪で起訴すべきだったと明快に断じたのである。
 当時は,正直言って検察審査会があまり機能しておらず,今日のように検察の決定を覆すのはほとんどみられないことだった。この面からも,検察の中途半端な対応は批判された。
 最後は,「異例のスピード上告」に対するマスコミの反応である。検察の上告がなされたその日の夕刊の各紙は検察の対応を批判するものばかりであった。なかでも,ある新聞の

「検察,異例のスピード上告。直ちにスピード却下―とはいかんかね。」

という1面コラムは,今でも鮮明におぼえている。当時のマスコミは今日よりずっと健全だった。

5 私と検察,私とマスコミ
  ――最近の特捜事件から――

実は,一昨年夏から,文部科学省贈収賄事件の刑事弁護を担当している。そう,あの東京医大入試がらみの事件である。
 今,裁判は“佳境”に入っているのであまり多くは語れないが,被告人は全員「無罪」を主張して公判を闘っている。
 私が皆様に知っていただきたいのは,マスコミの報道姿勢の余りの酷さである。
 起訴される前から被疑者たちは,無罪を主張して東京地検特捜部と対峙し頑張っていた。私は弁護人としてマスコミの取材には積極的に応じ(文字通り“夜討ち朝駆け”で,その余りの凄さに私の事務所のあるビルのテナントから苦情が出たほどである――今でもビルの入口に「部外者お断り」の貼紙が貼ってある。),何故無罪なのかをできるだけ丁寧に伝えてきた。
 しかし,そのことがたったの一言たりともマスコミで報道され,広く国民に伝えられることはなかった。新聞しかり,テレビしかりである。
 他方,東京地検特捜部の“垂れ流す”情報は,新聞・テレビを通じて,文字通り洪水の如く氾濫した。
 一番極端な例は,ある大新聞が,東京医大の不正入試に対し東京医大が設置した第三者委員会の報告書を紙面に掲載した際のものである。
 この事件で起訴された文科省の局長の子息は,“不正な加点”がなくとも合格していた。つまり,実力で合格していた。しかし,マスコミは,このことを一切報道しなかったが,私が驚愕したのは,某大新聞がこのことについて第三者委員会の調査報告書の“全文”を,しかもわざわざ一面全部を使って載せておきながら,この肝心の

「問題の子息は加点なくても合格していたか」

という一節をゴッソリと削除して報道したことである。そこまでやるか,そこまでして世論を誤導したいのか,そこまでして検察に媚びを売りたいのか。その“見返り”はなんなのだ――今でもこのことを思い出すと,怒りと義憤で前身の震えが止まらない――。このような東京地検特捜部の報道を無批判に垂れ流す日本のマスコミ報道により,この事件の被疑者・被告人は,「判決を待たずに,どころか,起訴以前から」社会的に有罪と断ぜられてしまった。
 そして,世間のバッシングが襲いかかる。不正な加点がなくとも実力で合格した局長の子息は,インターネットを通じたバッシングの嵐にさらされた。そして,今でもさらされ続けている。こんなことでよいのだろうか。
 そして,事態はもっと深刻化している。実は,この裁判で弁護側が申請したある証人が,裁判所によって証人尋問の行われる直前になって「証人辞退」を申し出てきたのだ。その理由は,「自分が証言することによって,世間のバッシングにあうのが怖いから」というものであった。これでは,まともな裁判すら成立しない。実に恐るべきことといわなければならない。
 ただ,例のゴーン氏事件では,ほんの一時だが,若干風向きが変わった。すでに捜査段階(起訴前)から,マスコミがゴーン氏の主張の骨子を報道するようになったのだ。欧米から日本の“人質司法”批判の大合唱が聞こえてきたからか。日本のマスコミは

「西風に弱い」

のである。これはこれでまた実に情けないことである。

 実は,このようなマスコミの堕落ぶりが,日本の国を駄目にしているのである。
 スサノオ通信第2号で

「論争を避ける国家とそれを容認する国民」

について警鐘を鳴らしたつもりである。
 異論・反論を封ずる国家・国民は確実に衰退する。論争のないところに発展はない。マスコミのせめてもの役割は,読者・視聴者に対し,

「論争の素材を提供する」

ことではないのか。せめてそのくらいのことはしてもらいたい。

6 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ(五箇条の御誓文)

「論争を回避する国家とそれを容認する国民」――そしてそれを土台で支える日本のマスコミに対し,この言葉を捧げる。

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